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【有楽町の歴史をたどる】シリーズ第3回「すし屋横丁で先駆け的メニューを提供した食堂の粋」とんかつあけぼの 中村武志さん


高度経済成長期にがんばり続けた人たちのおかげで混乱を乗り越えた街としても知られる有楽町。中でも、有楽町駅前に広がっていた「すし屋横丁」は、戦後の混乱期にたくましく生きた商人たちの象徴。有楽町.TODAYが贈る、有楽町の歴史をご紹介する【有楽町の歴史をたどる】シリーズ。第3回は、すし屋横丁で食堂を営み、東京交通会館落成後は同会館B1Fに移転し営業する「とんかつあけぼの」の先代である中村武志さんが登場。当時を物語る上でなくてはならないすし屋横丁と有楽町を語っていただきました。

近隣勤務者たちの憩いの場である大衆食堂からスタートした人気とんかつ店

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昭和37年、近隣勤務者たちの憩いの場である食堂を誕生させ、東京交通会館に移転後は人気とんかつ店として繁盛。現在、ご子息が後を継いで美味しいとんかつを変わらず提供する「とんかつあけぼの」の先代・中村さん。

「なにもない中で毎日必死。ともかく朝から晩までよく働いたな」と快活そのもので語る中村さんは、今でも朝の仕込みのため店に出向き、仕込みを終えてからさまざまな活動に精を出す元気な先代。

「うちはすし屋横丁最後の時代に開店したんだけれど、東京オリンピック開催前で街全体でがむしゃらにがんばった時代。都庁や大手新聞社のおかげで、すし屋横丁は潤った」

当時の有楽町は、都庁と読売・毎日・朝日など各新聞社が揃っていた時代。都庁・大手新聞社が移転するまで続きます。

すし屋横丁は誰もが生きるために必死だった時代の象徴

「早朝から店を開けて、今で言うモーニングを提供する大衆食堂として商売していたんだ。朝昼晩問わずカレーライスや定食が人気で、毎日通ってくれたお客さんたちのおかげでやってこれた。ありがたかったね」

すし屋横丁で実際に軒を構え商売を営んだ貴重な人物。実際の「すし横」の印象をお伺いしてみました。

「ヤミ市のようだったね。今の上野のアメ横ほど人は多くないけれど、あれを昭和初期の横丁にしたような。すし横は、戦後の混乱期に建てた商店が集まったもので、いわゆる合法的な商店街じゃないから。あの頃はそれが当たり前で、みんな生きることに必死だったよ。そうやってきたから今があるんだけれどね」

ご苦労もたくさんあっただろうことを事もなげに笑いながら時折目を細め、当時をなつかしむように語る中村さん。昭和30年代中期の空気が蘇ります。

食堂時代の人気メニューにヒントを得てとんかつ店としてリスタート

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今年で50周年を迎えた東京交通会館が完成し、すし屋横丁で営業していた商店は14、15軒ほど入居したそう。

「うちは完成から数年経った昭和43年に入ったんだよね。少し休養したんだ。食堂時代に1番人気だったカツカレーにヒントを得て、とんかつ屋でやっていこう、と。これが当たって、今では次男・三男が後を継いで、それぞれの嫁さんと4人で店を切り盛りしている。長男は歯科勤務医で、父親に似ず優秀な子供たちに育ったね。嫁さんが子育てがんばってくれたおかげだよ」

茶目っ気たっぷりに語る中村さん。明るく実直にご商売をやってきた背中を見てきたからこそ、奥様に頼りにされ、息子さんたちも立派に育ったことが感じられます。

今では外国人のお客さんも日本文化として楽しんでくれている

東京交通会館内ですし屋横丁出身の店舗は、現在何店舗営業しているのでしょうか?

「今は半分くらいかな。都庁と新聞社の移転で様変わりした。主のお客さんが都庁と新聞社だったお店は一緒に移転。残っているお店はそれ以外のお客さんが多かったことが理由だね。それでも移転当初は売上が落ち込んだよ。すし横時代と違って、交通会館に移転してしばらくは昼間は繁盛したけれど夜は閑散としたしね」

現在の同会館はアンテナショップなどが多数入居し、昼夜問わずお客さんが足を運ぶようになっていますが、それまでは銀行や証券会社などが主だったため、夜はそのまま帰宅してしまう人が多かったそう。

「今では外国人のお客さんも多いんだよね。とんかつを揚げる姿まで楽しんでくれている。日本文化として捉えられているんだろうね」

混迷の時代を生き抜いてきたからこそ「何十年もやっていたら良いこともなくちゃねって思うんだ。子供たちも立派に育って、ようやく良い人生だなと思えるようになったよ」といたずらっ子のように微笑む中村さんは、幸せの「福顔」でした。

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