有楽町は、日本最先端のカルチャーの街として栄えたことでも知られています。有楽町.TODAYが贈る、有楽町の歴史をご紹介する【有楽町の歴史をたどる】シリーズ。第5回は、有楽町駅日比谷口から徒歩1分に居を構える「有楽町スバル座」の営業係・加藤和人さんが登場。入社以来、諸先輩方の話や、スバル座発行の貴重な文献などから同劇場および有楽町を知る加藤さんに、日本の歴史に色濃く結びつく「有楽町スバル座」と有楽町を語っていただきました。
昭和21年12月31日、『わが心の歌』の上映から歴史がはじまった「有楽町スバル座」
気軽に足を運び、タイムトラベル気分でさまざまなストーリーを楽しめる映画館。ストレスリリースに、人生の潤いに。楽しみ方は人それぞれですが、加藤さんのお話からうかがえるのは、かつて映画が「現在より娯楽が少ない時代だからこそ、日本人の高揚感と共に迎え入れられた」事実。また、「有楽町スバル座」が日本の歴史に色濃く結びついていたことが随所に感じられます。
「『有楽町スバル座』の歴史がはじまったのが、昭和21年12月31日。『わが心の歌』の上映からスタートしました」
前日の12月30日、朝日新聞にて「新着のアメリカ映画の御観覧はゆっくり御座りになってご覧になれる指定席のスバル座で 映画は「わが心の歌」封切 有楽町駅前 スバル座」との広告が掲載された「有楽町スバル座」の幕開け。
「前売券を買い求めるために長蛇の列が続き、当時はまだめずらしかった色鮮やかなモルタル塗りのスバル座は、お客様の大興奮と共にはじまったそうです」と、当時の貴重な写真が掲載された同劇場発行文献を見せていただきました。
昭和21年といえば、日本が連合軍の占領下におかれていた時代。「有楽町スバル座」誕生の経緯に、「総司令部当局の指示にてアメリカ系大手映画会社の大半を、傘下のアメリカ映画輸出協会を通じて、対米友好感情の醸成および日本国民への啓蒙宣伝活動を目的とした」とあったことからも、日本の歴史と共に歩んだ存在だと理解できます。
歴史的人物たちも足を運んだ「有楽町スバル座」は、日本の戦後復興期を共に歩んだ存在
「ちょうど戦後の復興期と重なり、足を運んでくださるお客様が連日途切れず、新たな文化が生まれたことを喜んでいただいたことが、あらゆる話や当社の書物からもうかがえます。日本の文化黎明期に映画があったということですね」
「有楽町スバル座」はもとより、周辺も戦後再建の活気にあふれ、日本の良さを活かしつつも、どこか異国情緒ただようモダンな風景が生まれた時期。明治・大正期から戦前までの丸の内~有楽町エリアの伝統的たたずまいだった赤レンガビルの林立、「一丁倫敦(ロンドン)」の異名をとった時代を活かしつつ、この貴重な時期に現在の有楽町の礎が完成したともいえます。
「昭和22年3月25日に、全館指定席(席数804)、最後列にロマンス・シートを配したロードショウ劇場としてリスタートし、日本のロードショウ発祥の劇場と呼ばれるようになりました。全席指定席を採用していたのは、当時は当社のみです」
本邦初の試み「アメリカ交響楽」をロードショウ公開した際には、初日に吉田茂首相からお祝いの花束が届いたことをはじめ、特別招待試写会には高松宮殿下や、婦人同伴で現れたGHQ高級将校の面々など壮観な光景になったそう!
MGM映画「心の旅路」特別招待試写会時には、三笠宮殿下や片山哲社会党連立内閣首相、人気喜劇役者・古川緑波、往年の大女優・高峰三枝子など銀幕のスターたちも大集結!来賓の豪華さでも類を見ない象徴的存在として、「有楽町スバル座」は日本全国に知られることとなりました。
ところが、昭和28年9月6日の火災で焼失し、昭和20年代の歴史を一度終えることに。「やっぱりスバル座で映画が観たい」という多くの人たちの声にも応える形で、昭和41年4月29日、新生「有楽町スバル座」が再び産声をあげました。
歴史的劇場として今もなお健在の「有楽町スバル座」。そのヒストリーを紐解くほどに、有楽町はもちろん、日本そのものが感じられる貴重なお話の数々でした。
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